アメリカ・アメリカ・アメリカ
2015年の節分が終わり、真に年が切り替わりました。その後の初アップ。
お題は 「アメリカ・アメリカ・アメリカ」
これは、先月、うちの会長が長崎で参加したお坊様の講演会の題を、そのままいただきました。
ん、熊谷市の話題から始まってるのに、なぜアメリカ? お題の意味は、最後にわかりますので、よかったらご覧ください。
「熊谷市」は、九州在住の私たちにはあまり身近じゃないですよね。
その熊谷市出身の作家、森村誠一が、母校の小学校に寄稿した文章がとってもすてき。
http://www.kumagayahigashi-e.ed.jp/?page_id=102
下の方にある、遠足の文章、本当に楽しさがものすごく伝わってきますね。
誰もが、忘れた幼い頃の何かが思い出される、すてきなすてきな文章です。
上のHPの「遠足の思い出」 ぜひご覧ください。
森村先生の母校のHPを、うちの会長がどうして見たかというと・・、会長が東京のホテルで、東京新聞夕刊の森村先生の連載エッセイを偶然読んだことからでした。
それは、1945年8月14日、終戦の一日前、熊谷市はアメリカ軍の空襲にあったことが書かれてありました。
森村先生はこう書かれています。
「すでに日本がポツダム宣言を受諾して、日本が降伏声明を出した後、(近所の方、幼なじみは)命を奪われたのである。米軍は ~中略~ 余った焼夷弾や爆弾がもったいないとして、もはやなんの戦略・戦術的な意味のない、私の故郷に残弾を捨てにきたのである」
会長はホテルの部屋で、固まってしまい、何度も何度も読み返したそうです。
「終戦の日、川に逃れて窒息死した、近隣の顔馴染みや幼なじみの遺体が折り重なって、澄んだ川底を隠してた場面が瞼によみがえった。その中に、密かに思慕していた少女がいた」
会長は、この東京新聞夕刊を長崎に持ち帰りましtた。そして、熊谷空襲のことや森村先生のことをネットで検索、その中に、先に紹介した、小学校の森村先生の寄稿文があったのです。
遠足の文章は、本当にすてきで、たのしそうです。
戦時中だから、屋根がない列車の遠足。だから逆に楽しさも倍増。
屋根がないから、頭の上に桜の花びらが降ってくる、そのたびに、歓声上げる子供たち。
なんて、素敵な風景なのでしょう。涙がでるほど、すてきです。
頭にふりそそぐ、桜の花びらに歓声をあげた子供たちが、降伏勧告をした後の「意味がない」空襲で、炎の中で、水の中で死んでいったのです。
同じ時期に会長が読んだ長崎新聞の被爆者の手記にこうあったそうです。
「勝山国民小学校の前で、一人の男児と出会った。小学校1年生くらいにみえたが、真っ黒なやけどと黄色い膿に覆われ、迷彩服のようだった。耳はなく、目や鼻、口も判別できず、どちらが正面かもわからなかった。鉛筆とノートを抱えてうれしそうに学校に戻っていったが、皮膚がはがれ鉛筆も握れないだろうに、ノートにどんな絵をかくのだろうと、複雑な気持ちで見送った」
会長はこの手記を丁寧に切り取って、保存しました。
さらに・・同じ時期、1963年頃学校給食の脱脂粉乳の、輸入の現場を撮影したカメラマンの記事がありました。
「埠頭に積み上げられた脱脂粉乳はまるでセメントのように、袋に詰められていた。米国の港湾倉庫などに積まれたままになっていた余剰農作物。果たしてこれが食用といえるのだろうか」
日本の給食用に、小麦や脱脂粉乳を輸出することを促進するための、アメリカの法律は、別名「余剰農作物処理法」と呼ばれたのです。
「余剰農作物処理法」と呼ばれた法律と
日本の学校給食法は、
同じ年に作られた法律です。
給食には必ず、牛乳とパンがつくものと「法律」で決められたのです。
アメリカは、余剰作物(腐る食物)を 日本の子供たちに食べさせてお金にかえ、日本国内の米軍基地をつくる予算にあてました。
腐るものを、腐らないものに変えた、とは当時のアメリカ関係者が発言したことです。
戦後の子供の食料まで、アメリカの戦略に利用されました。
さあ、お題の「アメリカ・アメリカ・アメリカ」ですね。
会長が参加した講演会の講師は、原爆体験者のお坊様でした。
「あの地獄絵図の原爆を落としたアメリカ」と
戦後長崎にやってきて「ハロー」とやさしく、子供たちにお菓子をくれたアメリカ兵、
自分の中には、たくさんのアメリカがある、どれもアメリカなんだ、とはなされたそうです。
会長にっとっても、お坊様の話を聞いた同じ月に、
本当に悲惨な原爆、
米をおとしめたアメリカの食料戦略、
森村先生の記事、降伏後の熊谷空襲
アメリカ・アメリカ・アメリカ、と考える機会があったことから、FBで受ける話題ではないけど、数名にでも伝わればと、アップすることとしました。
これはHPでもアップします。
少しずつでも、たくさんの方に伝わることを祈って・・・。